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 60年代に代表される、アメリカン・カウンター・カルチャーを肌で感じること。それは、アートの勉強や夢の研究と共に、私が渡米した大きな理由の一つだった。私の夢解読の師である加藤は、実は、60年代の日本のカウンター・カルチャーを代表するアーティストとしてもよく知られている。加藤の思想を理解するには、渡米して「本場の」カウンター・カルチャーを学ぶことが不可欠に思われたからだ。

 2015年、「稀代のプレイボーイとして知られるポップ・スターが、60年代のアメリカン・カウンター・カルチャーを代表するGrateful Deadのメンバーたちとバンドを始め、全米ツアーに出る!」というニュースは青天の霹靂だった。そのとき以来、彼は私の夢に度々登場するようになり、現実の私は彼らのコンサートに欠かさず足を運ぶことになった。

 60年代のアメリカン・カウンター・カルチャーこそ、まさに「現実と夢」「意識と無意識」の関係のように、西洋という人間文化の一側面が、東洋という人間のもう一側面を、あらゆる手段による心身への暴力が個を飲み込む社会システムの中にあって、個の生の全体性の回復のために切実に求めた現象であったように思われる。

 

 その当時、人生を丸ごと賭けたドロップ・アウトの片道切符だったはずのサイケデリック・ドラッグさえも、現代アメリカでは、セックスの小道具どころかエリート・ビジネスマンたちがストレス・フリーに長時間労働するためのマイクロ・ドージング(ごく少量の処方)に手懐けられ管理・消費される時代になっている。一方、現代日本も、アジア古来の和の精神性が破壊され尽くし、心の中にまで監視カメラが設置されているような同調圧力と偽善の監視体制の中で、日常が監獄化してしまっている。

さあ、こんな時代の私たちが、あの60年代の若者たちのように切実に変革を求めて生きることができるならば、それはいったいどんな契機が、何がそれを可能にすることができるというのだろうか。

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